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経済成長という呪い―欲望と進歩の人類史を読んだ

Posted on:2018-04-23 at 12:00 AM

ダニエル・コーエン著「経済成長という呪い―欲望と進歩の人類史」を読んだ

最近 NHK で放送されて話題を呼んだ欲望の資本主義でもインタビューされていたフランスの経済学者ダニエル・コーエンによる書籍。文化人類学、社会学、経済学などの知見を用いて資本主義に伴う経済成長の限界を解説している。

簡単にまとめると、現状の資本主義の経済成長モデルは限界だから転換が必要ということらしい。

ピケティの 21 世紀の資本論が示すようにアメリカでは経済成長の大部分が上位 10%の懐に収まり、90%の市民が購買力の上昇とは無関係だった。また中国での穏健なグローバリゼーションも国内の全ての国民に同レベルの生活を保証するには世界の資源が圧倒的に足りないという。何しろ10億人だ。10億人がほぼ同じ経済レベルに達するには何十もの国がいきなり先進国と同等の生活レベルになるようなものだ。現在の生活でも二酸化炭素などの環境への被害が深刻なことからこれ以上の経済成長には環境問題による上限が存在する。

人新世(アントロポセン)の時代において、環境への影響は無視できずこれを解決しない限り無限の経済成長は難しいという。

また IT 技術は労働を集約しはするものの労働を増やしはしない。これが理由で一部に富が集中しそれ以外は IT で置き換えられないような低賃金労働へ労働力が集中するため給与が上がらず格差が広がり賃金上昇の停滞を招いたと、多くの経済学者が認める。そして賃金上昇の停滞がイノベーションを停滞させ、全体での経済成長への停滞となっている、というのが本書の大筋での主張。

グーグル、フェイスブック、ツイッターの三社を合わせても、今日のどの自動車メーカーよりも雇用者数が少ないのだ。


四三% の経済学者は、アメリカにおける賃金停滞の原因は、情報およびコミュニケーションに関する新たなテクノロジーにあると認める(三〇% の経済学者は、そうかもしれないと述べる)。ブリニョルフソンとマカフィーが指摘するように、経済学者たちは「知られたくない真実」を(自分たち自身に)隠している。すなわち、全員が技術進歩の恩恵を受けるという保証などないのだ。

実際テクノロジー産業に関わるものとしては実感としてよく分かる。IT は基本的に労働を減らす産業だから IT が進化すればするほど労働力が必要無くなる。かといって働かなくてよくなるわけでもなく、IT が労働力を奪う工場や銀行などから飲食業などへ労働力が流出し、賃金の低下を招く。IT テクノロジーは生産性を高めるが 18 世紀の産業革命のように工場といったような新しい職場を生み出しはしない。

18 世紀の産業革命ではペストによる人口の大幅な減少により労働者の数が大幅に減り労働者の賃金が上昇し、購買力が増えたことで需要が生まれイノベーションが生まれ、都市の工場で働く中流階級が生まれた。あくまで人口減がイノベーションの原因であり、技術革新により賃金が上がったわけではない。

IT から新しい職が産まれるのが困難な理由が情報技術が根本的にエントロピーを下げることで不確実性に対処する技術であることだとしたら、IT を推し進めていく限りこの雇用を生みだしていかない方向は不可避なように思える。AI や IT で置き換えることが難しい産業に積極的に投資していくか、BI で介入していくしかなさそうな気もする。

またグローバル化で均質化した社会が差異を求めて難民排斥や人種差別の原因になったと分析する。

分断され続ける傾向のある世の中では、情報とコミュニケーションのテクノロジーが罠を仕掛ける。これらのテクノロジーにより、社会には調和が訪れ、他者と隔たりや差別なく、誰もが自由にコミュニケーションできる、アクセス・フリーでフラットな世界が誕生すると喧伝されてきた。実際には、コミュニケーションのコストが低下したため、仲間同士でしか交流しない隠れた世界がいくつもできあがったにすぎない。


ルネ・ジラールは、「差異の消失の危機」を分析した。彼は、次のように説いた。「どんな人間も自分が他者とは『ことなる』とは感じることなく、また『差異』を正当かつ必然的とは考えていないような、そんな文化はありえない。(……)


双子の存在は、差異の消失という暴力を想起させる、深刻な危機の予兆だと思われていたのだ。


スケープゴートの犠牲者は、社会に平和を再びもたらすのである。このようにして、なぜこうした奇妙な紆余曲折を経て、寛容と自己の開花に専心すると思われたポスト工業社会の中核に、人種差別や外国人排斥が再燃したのかがわかる。

原始社会では双子は不吉の予兆とされたり現代でもドッペルゲンガーは不吉の象徴とされたり、根本的に人間は差異を求めるものなのかもしれない。生物学的に求めているのか、社会学的なものなのかは分からないけど。SNS で効率よく均質化出来るようになった社会は差異を見つけ出したい人でいっぱいなのかもしれない。

状況への「馴化」と、常に適応しながらも期待値自体を下回るのではないかという心配の二つを組み合わせると、不快な結論が得られる。すなわち、われわれは常に不足という心配に悩まされ続けるのだ。どんなに注意しても、不足の心配は人間の心を常に苛む。人間が欲求から逃れるために豊かになっても、その新たな状態がすぐに新たな基準になり、すべては振り出しに戻るのである。

民主主義と資本主義に付き添うポスト工業社会の進歩という名の啓蒙思想が経済成長を呪いのように支配していることを示し、精神構造の転換が必要なことを示して本書籍は終わる。

経済成長には三つの宗教的な構造があると記した。一つめは、経済成長は宗教として機能することだ。つまり、経済成長に関係しない考察は、すべて不敬として退けられるのだ。二つめは、経済成長は、「休みなく、そして情け容赦なく」であることだ。つまり、経済成長の示す論理は突き詰めなければならないのだ。三つめは、異議を唱えると、異端者として糾弾されることだ。つまり、富を生み出すための独創的な努力を惜しむ者は、呪われた者なのだ。


現代社会は、経済成長なしでも持続できるのか。現代社会の職場が個人に課す重圧や個人の妬みを考慮すれば、正直に答えるとノーだ。経済は再び成長するだろうか。歴史を振り返り、環境問題という将来的な制約を考慮すれば、これも期待できない。ようするに、西洋社会は、怒りと暴力にまみれるという結論は避けがたいように思える。


企業内、人々の間、国家間において、社会的なつながりを穏やかなものにするには、われわれは競争と妬みの文化を超越しなければならない。人々の精神構造はこれまでに何度も変化したが、それは政令によってではない。個人の熱い思いと社会的な欲求が同じ目的に向かって一致すれば、人々の精神構造は変化する。われわれは、まさにそのような瞬間にあるのだ

個人的には最近の Facebook に関する一連の流れが一つのきっかけになれればと思っている。自分がインターネット企業の商品であることを自覚し、オルタナティブを選択していく勇気を1人1人が持てば全体としてインターネットの多様性は保てる。そこに何か可能性があるのではと思っている。あってほしいなぁ。あれ。

全体的には 2015 年以降での一般向けの啓蒙書という感じになっていてページ数も短めで割とあっさりよめるので最近の資本主義終末論など知りたい場合はいいかもしれない。

経営者は従業員に対し、「自主的になれ、自ら進んで行動しろ」と命令しながらも、事務手続きを増やし、ソフトウェアによる労務管理を強化し、従業員に自主的に行動するのを禁じている……。

はい